「おかえりなさい、仙蔵さん」
「ただいま―――



あの時死んだはずだったは今、私の家にいた。

あの時、ふと我にかえると既に終戦の合図があった。皮肉にも、その合図 はが谷底に落ちてすぐのことだった。せめてが谷底へと落ち る前であったならば、こんな結末にならずとも済んだかもしれないのに。 だがしかし、過ぎ去った出来事について今更どんなに後悔しても時間が戻 ることはない。ならば、と私はすぐに谷底に滑り降りた。を弔って やるためだ。どうせ戦は終わったのだ、構わないだろうと半ば投げやりな 気持ちで。忍としては失格かもしれない、しかしどうしてもの死体 を確かめずにはいられなかった。自分の殺した、そして愛した女の成れの 果てを。
は谷底にその朱に塗れ、ひしゃげた骸を横たえている―――はずだ った。しかし倒れていたに目立った外傷はなく、まるで眠っている かのようにその表情も穏やかだ。生きて、いるのか?背の低い木々が谷底 に多く生い茂っていたので、それによって上手いこと衝撃が緩和されたの かもしれない。まさか、とは思いつつ、わずかな期待を込めて身体を調べ ると切り傷や打撲以外に表立った怪我はない。微かに息をしていることが わかり、歓喜した。―――なぜ?すぐに自問自答する。自分は今さっき を殺そうとしていたのではないか。心を消し去り、愛した女と決別し たではないか。もう二度と生きて会うことが出来なくなると、覚悟したで はないか。現には私が殺したも同然だ。それなのに、が生き ていることに安心しているなんて。生きていたならばとどめを刺さなくて はいけないはずなのに。心を消し去りきれず、のことを未だ好いて いるから?だが、そのを手に掛けようとしたは己自身。ああ、なん という矛盾!なんという滑稽さ!馬鹿らしいと自嘲する。
ただ気絶しているだけのを背負い、私は自分の住家へと帰った。城 へ帰るつもりはなかった。どうせ戦だったのだ。自分はあそこで死んだこ とにしよう。そうすれば、が起きたときに私は敵ではない。自分勝 手に事を進めていく。こんなことが許されるはずは到底ない。感情のまま に動き、主君の命令に背く忍など考えられない。けれど、欲に塗れた思考 は巡る。ここで私が忍を辞めたのならも安心して、もしかすると暫 くは傍にいてまた昔のように笑い合えるかもしれない……なんて、甘く愚 かな考えが。自分に都合のいいようにすべてを考えていることに嫌気がさ す。どうしようもなく愚かな自分に、吐き気がする。愚の骨頂だ。いつま でも、ずるずると昔の思いばかりを引きずって、未だ一歩も前へ進めない 自分。それどころか、忍にとっての三禁に溺れそうになっている。いや、 もしかするともう手遅れかもしれない。私は、まだあの卒業3日前で止ま ってしまっているのかもしれない。に思いを告げようとして、それ でも出来なかったしょうのないくらい情けない自分に。ああいっそ、 を殺し、私も死ねばこの愚鈍でどうしようもない己は変われるだろうか 。よくあるではないか、結ばれない運命にあった二人は手と手を握りあい 、来世では……と仲良く死んでいく物語が。どこか霞みがかりぼーっとし た頭でふとそんなことを思った。頭のどこか一部、冷静な部分がそれを傍 観している。気がつけば懐から最後の苦無を取り出して、彼女の、 の首元へと運んでいた。ぷつり、と僅かに食い込んだ先から赤がにじむ。 これを引きさえすれば、すべて―――。そう思ったとき、がぴくり と動いた。小さく身じろきをすると、瞼を震わせその薄く開いた瞳に私を 写した。苦無を片手に思わずピシリと固まり、動けなくなった。私は今、 一体何をしようとしていた?を、この手に掛けようと?一度ならず 二度までも。どうしようもない後悔と、自己嫌悪の念が襲ってくる。



……わ、たしは……」
「あ、あの………」



なにか、なにかを言おうと(果たしてそれは言い訳か、懺悔か)の 名前を呼んだときに、彼女の様子がどこかおかしなことに気がついた。ど こか目が虚で、未だ焦点があっていない。気絶した影響か?いや、なにか が違う。やがては小さくかぶりを振ると、消え入りそうな声でこう 言った。



「あなたは、わたし、は……だれ………?」



は、記憶をなくしていた―――













潤んでいたのは誰の瞳か