「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という故事成語を知っているだろうか?
まぁ、日本人ならば意味は知らなくとも言葉ぐらいはご存じだろう。

――――危険を冒さなくては得るものはない、という意味だ。

現在のあたしの状況はまさにこの通り、危険を冒して利を得ようとしている。
できればやりたくなかったのだが、生きていくためにはこれも仕方がないのかもしれない。
所謂等価交換でもあるのだ、これは。


――なんていろいろと難しいことを並べてみたけど、要するにアレよ。
お金が必要ってこと。

生きてくためには必要不可欠なものだと思うのよね、実際。
まあ山の中自然の中で自給自足の生活っていう選択肢もない訳じゃないんだけど、
何事もある程度は便利な方がいいしね。
衣服とかの問題もあるから完璧な自給自足生活はできないし。
人間は進化し続ける生き物だから、文明の利器は大切よね。うん。


ところで、お金を稼ぐにしても様々な手段がある。
大学出なら会社員。
主婦ならパート。
資格があるなら医者や教師。
学生であるならアルバイト。
土地があるなら農業をしてみるのもいいかもしれない。

別に今挙げたことにこだわる理由もないが、世の中は大体こんな感じだろう。
そんな一般的なものから、ギャンブルや恐喝、果ては強盗、誘拐、殺人まで……
犯罪を犯す覚悟と度胸さえあれば方法なんていくらでもある。
合法的か非合法的なのかはともかく、ね。

因みにあたしが金稼ぎの方法として選んだのは、今挙げた中のどれでもない。
あたしの特殊性を有効活用できる場所での金稼ぎ。
怪我も死亡も有り得るが、戸籍も身分証明もいらない。
そんな損得両方の特性を併せ持つ場所、それこそまさに―――天空闘技場。



* * *



神に落とされたのは、某週刊少年雑誌で連載中のHUNTER×HUNTERの世界だった。
幸か不幸か、落とされた先は街だったため周囲を観察しただけですぐに自分の現在位置を、
いったい何の世界へと落とされたのか知ることができた。
だってハンター文字って独特だしね。
(落ちた先ですぐさま冷静に状況把握を行っている自分がいてちょっと悲しいものがある)
(こういう場合の主人公ってもっと慌てふためくんじゃないだろうか)


HUNTER×HUNTERという漫画を、今世では一度も読まなかった。
が、前世ではそれはもうなめるように読んでいた。
しかしそれはあくまで前世。
数百年も前の記憶なので、原作の知識はうっすらとしか残っていない。
所詮粗筋程度なのよね、残念ながら。
主人公組とハンター試験の内容をかろうじて覚えているくらいかしら?
気合いを入れればもうちょっと詳しく思い出せるかもしれないけど、まぁ今は必要ないわよね。

そのことは頭の隅にでも一先ず置いといて、これからの生活をどうするかまず考えなくちゃ。
だって、さすがに無職はいやだもの。
というか、お金が欲しいのよ。
だけど普通に考えられる一般職……は、まず無理なのよねぇ。
あの神が、普通の職業について平凡に一生を終えることを赦すはずがないもの。
たとえ一般職に就いたとしても、すぐに邪魔が入って非日常に逆戻りになってしまうことは予想がつく。
だったら、一般人を巻き込んでしまうことの無いように特殊な職業に就かねばなるまい。
そう考えると、職業はおのずと限られてくる。
賞金稼ぎ、暗殺、情報屋、裏医者etc…
いずれにせよ、裏世界には大なり小なり関わっていくことになるだろう。
戸籍もないし。


――はぁ。
なんかもうくじけそうだわ……。

やっぱ神の提案になんか乗るんじゃなかった!って、後悔してももう遅いんだけどね。
手持ちぶさにベンチに座りながら、これからの方針についてボーッと考えてみる。

すぐ横にはアイスクリームのワゴン車があってアイスを売っているのだけれど、
それを買うお金すらないとなるとちょっと落ち込む。
軽く未来について不安を感じ始めたところで、近くから野太い男の声が聞こえてきた。



「さっきそこですれ違ったすげぇ美人だけどよ、ありゃあ天空闘技場の戦士らしいぜ」
「うげ、マジかよ。あんな細い身体してたのにか?」
「あぁ……声かけなくてよかったぜ」
「ナンパなんかしたら殺されてたかもな。怖い怖い。あ、そうだ。喫茶店の隣に――」



そんなことを喋りながら男達は遠ざかっていった。


天空闘技場……か。
確かに危険な場所ではあるが、それは一般人から見ればの場合だ。
戦闘のできる人間に限れば、いい金稼ぎの場でしかない。
私からすればフラグの立つ可能性がなきにしもあらずだが、目立たなければ大丈夫。

と、いうわけだから……早速、行ってみましょうか。



* * *



本屋で立ち読みした旅行雑誌の地図のおかげで、なんとか日が暮れる前に天空闘技場にたどり着くことができた。

(久しぶりの長距離走で息切れを起こしてしまい、日頃の運動不足を思い知らされた)
(なんせ500キロを2時間で駆け抜けたんだもの、しょうがないわよね!)
(と、ちょっと自分に言い訳してみる)

今日が野宿なのはこの際もう諦めているのだけれど、一日中何も食べないのはさすがに辛いものがある。
そりゃ、死にはしないわよ?
人間って何も口にしなくてもしばらくは生きていけるらしいしね。
だけど、誰だって空腹状態が続くのは嫌だと思うし、あたしだって御免だわ。
なんの修行よ。

だから、夕暮れ時になって少しは減ったのだろう黒い列の最後尾に並ぶ。
そして待つ。
ひたすら待つ。

ていうか、待ってる間の好奇の視線が鬱陶しい。
視線を矢に喩えることはよくあるけど、実際に矢だとしたらあたしは今頃穴だらけだろうな。
致命傷だ。

そりゃ、確かに女でここに来るっていうのは珍しいかもしれないけど、そこまでじろじろと見ることはないじゃない!
いい加減、鬱陶しいのよ!
と、イライラが爆発する前に順番が回ってきた。


えーと、なになに?
名前に生年月日、性別……格闘技経験?
……これってさすがに前世の分とか入れたらまずいわよね。
数百年ぐらいにはなっちゃうし。
ま、10年ぐらいでいっか。
これでよし、と。



「よし、これでお願いします」
「はい、確かに。それではあちらの控え室にて、番号が呼ばれるまでお待ちください」
「どうも」



控え室は予想通りというかなんというか、男だらけだった。
しかし……今すぐに消臭スプレー振りまいて窓開け放って日光を取り入れたい気分だわ。

むんむんじめじめむしむし。

もちろんそんなことは到底無理なのだろうけど、ここまで陰鬱というかモサいというかムサいというか……。
うん、長時間いることは無理そうだわ。
耐えられないわね、ここ。

ちょっとイライラッときて、思わず殺気が漏れた。
周りの人間がビクリと身体を震わせ、冷や汗をかきながら顔を青くするのがわかった。
あらやだ、いけないいけない。



「3724番、Dリングへ。3849番はAリングへ」



思っていたよりも早く番号が呼ばれたわね。

さて、と。
頑張って行ってきますか。


とりあえずは食事代でも稼がなくちゃ。













楽じゃないよ、どちらを選んでも