胸騒ぎがした。

何故だかはわからない。
先輩が、いつもは何度言っても呼んでくれない名前で呼んでくれたからかもしれない。
「あとは頼む」だなんて、まるで遺言めいた言葉を残したからかもしれない。

とにかく、嫌な予感がした。
えもいわれぬ不安な気持ちになった。

早く、先輩に会いたい。
そうすれば、こんな気持ちなんて吹っ飛ぶだろう。
だって、先輩だから。
根拠のない理屈。

だけど、だからこそ、早く!

足を目一杯動かして、いつもなら敬遠しがちな6年長屋へと急ぐ。
不安だ。

先輩の部屋が見えて、その戸が閉まっていて。
まるで俺を拒絶しているかのように思えた。



「先輩!いらっしゃいますか!?竹谷ですっ!先輩!」



叫んで、戸を叩く。けれど返事はない。
その木戸を勢いよく開いた。
光の差し込む部屋の中、先輩は壁際でしゃがみ込んで眠っていた。
ふぅ、と思わず安堵の息を漏らす。



「なんだ。先輩、寝て………」



部屋の中に入っていくと、それに気付いた。

桶。
何の変哲もない、ただの桶。

異様なのはその中身だ。
あかい、液体が、なみなみと入っている。
化粧用の紅の色じゃない、それ。

そして、気付いた。
微かに漂う、金属の香り。
白くなった、先輩の、肌。



「っ先輩!?」



駆け寄って揺さぶる。
身体に触れると、ゾッとするほど冷たかった。
いくら冬とはいえ、これは人間の―――生きている人間の体温じゃない。

思わず手を引っ込める。
先輩の身体がぐらりと横に倒れた。

ちゃぽり、桶の水が飛び散る。
あかい、水で薄まった血が点々と床に模様を作っている。
先輩は雪のように真っ白で、眠っているだけのよう。

ああ、床が汚れてしまった。
それに着物も。
そんな妙な体勢で寝ないで下さいよ、先輩。
寝違えて首が痛くなりますよ。
先輩、先輩。
起きて、起きて下さいよ。

せんぱい。

死んだなんて嘘でしょう。
また、たちの悪い悪戯をしているだけなんでしょう。
冗談はやめてください。
そんな、先輩が、死んだだなんて。

ねぇ、先輩。



、せんぱいっ……うう、あ、う、ああああ゛あ゛あ゛あ゛」



その事実が身体の中へと染み渡っていくと同時に、悲しみと喪失感でいっぱいになった。
先輩、せんぱい。
なんで、こんな、どうして……。

先輩と出会ったのは一年のときだ。
今と同じ生物委員で、いっこ下のオレの面倒をみてくれた。
いっこ下の学年とは仲が悪いのがこの学園の常だけど、もちろん例外だってある。
それが先輩だった。

先輩は誰にでも優しくて、勉強も実技もなんでもできるオレの自慢の先輩。
頼りになって、沢山のことを知っていて。
オレの名前をいつもおかしな風に呼んでいた。
何事にも動じずおおらかで、そんな先輩が憧れだった。

―――好きだった。

いや、過去形じゃない。
今だって好きだ。
先輩が好きだ。

なのに、先輩は死んでしまった。
もういない。

先輩は、いない。



「先輩っ、せんぱい……、せんぱいっ!」



ああ、なぜ死んでしまったのですか、先輩。
どうして、オレを置いていったんですか。
先輩。ねぇ、答えて下さいよ、先輩。

いくら問い掛けても、その骸から返事が返ってくることはなかった。





「―――っ!」



がばり、と跳び起きた。
寝汗をびっしょりとかき、夜着が肌に張り付いて気持ちが悪い。
荒くなった呼吸を整えると、隣の温もりに気が付いた。


先輩……)


確かに感じる温かさに、ひどく安心した。
さっきのは、夢だったのか……。

目を閉じれば、まざまざと思い出せる先程の光景。
感触、肌の冷たさ、血の香り。
現実にあったかのようなそれに、ぞっとした。













二度と夢は見ない